金日成と金正日は、50余年間の北朝鮮統治を通して、自分達を民族の救世主と主張し、これを正当化するため、北朝鮮住民を奴隷屈従思想で教育することによって、無条件的な服従のみを強要した。
このような歴史的環境の中で生きてきた北朝鮮住民は、民主制度を全く経験することができないまま、自分達が出会った凄惨な現実の根源をありのままに把握できずに生きている。ただ服従、全体主義的な事故方式、無神論的思考、自分自身に対する擬懼心と萎縮感、保身のために密告する習性と生存のための原始的な集団意識等を備えている。
北朝鮮住民は、このような思考方式と活動形態を持つようにされたものの中の1つが悪名高い国家保安機構である国家安全保衛部と人民軍保衛局とすることができる。国家保衛部は、北朝鮮住民一般を監視の対象にし、人民軍保衛局は、北朝鮮人民軍を対象にする。
この2つの組織は、反間諜活動という名分を立て、反金日成−金正日主義者を索出、除去する活動を基本任務としており、階級的土台が悪く思想的に不健康であると判断される人々を反党、反革命分子というレッテルを貼り、粛清する活動を継続している。
特に、戦後時期に入って反金日成勢力が急激に登場するや、この勢力を軍事クーデター主動勢力と規定し、米国の雇用間諜、大韓民国の間諜として親○○分子、親○○分子として追い立て処刑、処理したのである。先ず、人民軍保衛局の登場の背景を見てみる。金日成は、1972年、政治保衛の機能を強化する目的で当時内務部(現在社会安全部)から安全総局を分離し、国家安全保衛部を作った。当時、国家安全保衛部の基本任務は、金日成の1人独裁体制樹立のための活動として、党、国家、軍隊等、社会全般に対する監視、査察を総括した。当時、人民軍内には、政治安全局が設置されていたが、この機構は、国家安全保衛部の直接的な統制を受けていた。
以後、国家安全保衛部の影響力が漸次拡大し、強くなると、金日成は、これに擬懼心を抱き、人民軍政治安全局に対する国家政治保衛部の統制機能を無くす措置を採った。この措置により、国家安全保衛部は、人民軍の監視、査察ができなくなった。このように1986年からは、人民軍政治安全局が国家安全保衛部のような独自の機能と役割を北朝鮮人民軍内部において遂行し始め、この人民軍政治安全局が人民軍保衛局にその名称が変わったのは、1970年代中盤である。
この機関の歴代責任者は、次の通りである。1960年代末から1970年代中盤までは、革命第1世代であるテ・ビョンリョル中将(現在大将、祖国解放戦争記念館館長)、1970年代末から1980年代中盤までは、 李ナムソン中将(前5軍団保衛部長、保衛一群出身)であり、1989年から1997年現在までは、元応煕大将(前空軍及び反航空司令部政治委員)である。入手した情報資料によれば、1995年末に人民軍保衛局が保衛司令部に昇格したという説があるが、まだ最終的に確認されていない。
最終更新日:2003/10/10
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